トンネル

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fukuda tonneru

「国境の長いトンネルをぬけるとそこは雪国であった。」は、川端康成の「雪国」です。その描写の美しさはないのですが、トンネルです。

いわゆる僕たちの生活の中にあるトンネルは地図上で線をひき計画されます。その本質には、曲がりくねる自然の地形をできるだけ最短距離で進みたいという合理主義的な一面があります。最短距離で進みたいわけですから、トンネルの入る側から出る側というのは、予定されたとうり間違いなく結ばれています。入ったはいいけれど何処にでるかはわかりません、ということがあってはいけませんし、そんなことは現実としてありません。

 

もう一つトンネルには、それとは異なる抽象的な転換の場として扱いがあります。
そのトンネルは距離感も変化し、出口も何処にでるかわからないという一面です。
人生の転換期、入る前と出た後では生活が変化したり、「雪国」では、トンネルを用いて気候の変化、土地の変化の意外性みたいなものを表現しています。
そこには異質なものや状態をつなぐ暗闇という異次元がそれをなしています。
ポイントはトンネル内は暗闇で、そしてどこかに繋がっているということかもしれません。

 

ちなみに、「出口のないトンネル」という表現がありますが、出口がなくなった地点でそれは、もはやトンネルではないのかもしれません。   トンネルは短いものであればいいのですが、長くカーブしていた場合入り口から入り、しばらく進むと入って来た側の入り口も進む先の出口も見えなくなることは珍しくありません。そうすると、さっきまで感じていた「この先の出口」という当然の期待感が揺らぎ、あきらかに進んでいるのだけれどその距離感はあいまいになります。トンネルですからもちろん陽の光は射しません。あわせて車なりの走行する音が反響し大音量となり、空気も淀んでいます。こうなってしまうと、陽の光が射す外界とは全くの異次元にいる感覚にさえなります。抽象的な表現での異次元と同時に、現実的にもトンネルは異次元化しているのかもしれま
せんね(笑)

 

さてさて、
写真のトンネルは羽田空港トンネルです。新しく建設中の国際ターミナルを横目に見ながら環八を進むとこのトンネルに入ります。中に入るとトンネルらしい暗闇とちょっと苦手な轟音で満たされた空間があります。このトンネルを抜けても、雪降る美しい景色も駅員さんも娘さんも現れません。   しかし、この暗闇の先にある光さす出口は大空に繋がっていると感じます。 もちろん空港内のトンネルだからというだけではありません。